疲れました。
目がしょぼしょぼしています。
はい、毎回毎回選評を写していくだけではあまり芸がないし、長時間かけて写したかいもあまりないので、写し終わるごとにその回の選評の感想を書いていきたいと思うんです。
よろしくお願いします。
【感想】
この選考委員だと、いまいち笑いどころがないな。というのが第一印象で、まあ普通の文学賞選評に笑いどころがあるのは異常なので、いいんですが、読んでる側、写してる側としては地味に辛かったです。一応、吉田修一さんは、「はじめてのおつかい(十九歳男子編)」とか、ちょっと笑わせにかかったかな? みたいな要素をいれてるんですけれども。
あ、吉田修一さんといえば、今回は松浦理英子委員にプチ裏切りをかましてます。松浦さん、吉田さんからは「青井が正確には五十メートルではない距離をついに七秒台の好タイムで駆け抜ける場面」にある「意味や文脈を越えた軽い衝撃」があると推されて、奨励賞いいかもねってなったらしいんですが、吉田さんは選評で「意味や文脈を越えた衝撃」になんて一言も触れておらず、むしろ作者の込めようとしたこの小説の意義みたいなものに感銘を受けた、というようなことを語ってるんです。まあ、受賞はならず委員個人の奨励賞だったので大したことではないですが。
あと、つっこみどころで言えば花村萬月さん「嘔吐物・吐瀉物」問題。もってる携帯辞書の広辞苑で調べたんですが、嘔吐物と吐瀉物という単語は両方ともなく、嘔吐と吐瀉でそれぞれ調べてみたところ、「嘔吐」は単に吐くことで、「吐瀉」は嘔吐+下痢。とのことでした。なるほどーという感じなのですが、そのすぐ後に使われている「喪う」という単語は、ニュアンス的には「死んでなくなる」ということらしいのです。「細心さ」という言葉に使っていいのか。なぜ、あえてその漢字なのか。言葉の使い方に厳しい花村先生に心の中で尋ねていた次第です。
2014年1月20日月曜日
2014年1月19日日曜日
第117回文學界新人賞
第117回文學界新人賞
選考委員 角田光代
吉田修一
松浦理英子
松浦寿輝
花村萬月
候補作 「はんだづけ」岩田幸武
「コケーニュ」長野光
「アフリカ鯰」前田隆壱
「息子の逸楽」守島邦明
「走る夜」野上健
受賞作 「アフリカ鯰」前田隆壱
「息子の逸楽」守島邦明
吉田修一奨励賞 「走る夜」野上健
角田光代
選評題「小説の定義を超える」
今回は候補作五作とも、どれもみなおもしろかった。作者が「小説とはこうしたもの」と規定しないで、あるいは自分内のその規定をこわそうとして書いている。そういう作品がひとつあるだけでも注目すべきことなのに、今回は五作ともにその意欲を感じた。
「はんだづけ」は前半が不要だと思う。夢からはじまり、手の描写がある。ここはラストと関連しているのだと思うが、関係性が生かされていない。奇妙な同級生が訪ねてきて、なんだかおもしろいなこの男、と思うが、ハンダ付けの作業がはじまってからは登場しない。ちょっとした思いつきのように読めてしまう。
この小説で、語り手の男がハンダ付けを中断するたび、プラグをコンセントから抜くところが、抜き忘れるのではないかという奇妙な緊張感がある。抜き忘れたからといって大参事が起きるわけではないのに緊張感が生まれるところがおもしろいと思った。でもきっとそうした魅力は、もったいないことに、作者は自覚していないのではないか。
「コケーニュ」の凝った文章は最初読みづらかったが、次第に引きこまれて読んだ。語り手のサラが、無秩序や悪意や残酷にじかに触れることで自身の生を確認する、それは非常に興味深いし、テーマとしてもとてもいいと思う。けれど、ここで描かれる無秩序や悪意や残酷が、読み手に迫ってこない。ニューヨークが舞台だからかと考えたけれど、そうではなくて、小説が閉じているからじゃないかと思う。無秩序も残酷も、またサラの渇望も、このテーマも、作者と深くつながっておらず、頭の中でていねいに緻密に作り上げてしまったものだから、閉じてしまったのではないか。これを今書かなければ自分はどうにかなってしまう、というようなテーマを芯に、この意志のある文章でまた書いてみてほしい。
「走る夜」は私にとってじつに魅力ある小説だった。冒頭に登場する自信ある男なんて、この短い描写だけで容易に思い描ける。ところが作者はその人物に拘泥せず、彼の目先の男に主体をスイッチさせる。走る速度が人間の優劣を決めると信じている男である。この男の、元同級生安くんの人物造形もまた、すごくいい。二人が公園で走り、タイムを測る場面もかなしいくらい滑稽だ。安くんにスイッチしない、つまり安くんがよくわからないままである、というのも巧い。私たちは、私たち自身にしかわからない尺度を持ってコンプレックスを持ったり他人をねたんだり自信を持ったりする、そのことの業じみた不可思議さ、空疎さ、滑稽さを読んでいて感じる。
もったいないと思ったのは、こんなにも魅力的な、生き生きとした人物を描けるのに、途中から出てくる警官にそれがないことだ。この警官は話を集約させるために登場し、実際、集約させる。ここで、作者の「小説とはこうあるべきもの」という、ちいさな枠に小説がおさまってしまった。受賞に推すことはできないけれど、奨励賞を授与したいという選考委員の声に反対はしない。集約させない次の小説を読みたいです。
「アフリカ鯰」は、現代版『オン・ザ・ロード』のように読んだ。なぜアフリカなのか? という疑問がまずわくが、その描写の見事さ、作品世界の頑固さで、疑問を消してしまう。理由なんてものはなくそこはもうアフリカで、語り手たちが非常に理不尽な事態に直面していることを、読み手に納得させてしまう力がこの小説にはある。語り手と親友岡との関係や、白人の女との関係も、類型に落としていないおもしろさがあるが、何より風景描写が非常に巧みだと思う。日本にはない太陽や、土埃を私は見、感じることができた。導入部が、回想へとうまくつながっていないように思えるのだが、もしかしたら作者はもっと長く書きたかったのではないか。この話にはまだ続きがあるのではないか。
選考委員 角田光代
吉田修一
松浦理英子
松浦寿輝
花村萬月
候補作 「はんだづけ」岩田幸武
「コケーニュ」長野光
「アフリカ鯰」前田隆壱
「息子の逸楽」守島邦明
「走る夜」野上健
受賞作 「アフリカ鯰」前田隆壱
「息子の逸楽」守島邦明
吉田修一奨励賞 「走る夜」野上健
角田光代
選評題「小説の定義を超える」
今回は候補作五作とも、どれもみなおもしろかった。作者が「小説とはこうしたもの」と規定しないで、あるいは自分内のその規定をこわそうとして書いている。そういう作品がひとつあるだけでも注目すべきことなのに、今回は五作ともにその意欲を感じた。
「はんだづけ」は前半が不要だと思う。夢からはじまり、手の描写がある。ここはラストと関連しているのだと思うが、関係性が生かされていない。奇妙な同級生が訪ねてきて、なんだかおもしろいなこの男、と思うが、ハンダ付けの作業がはじまってからは登場しない。ちょっとした思いつきのように読めてしまう。
この小説で、語り手の男がハンダ付けを中断するたび、プラグをコンセントから抜くところが、抜き忘れるのではないかという奇妙な緊張感がある。抜き忘れたからといって大参事が起きるわけではないのに緊張感が生まれるところがおもしろいと思った。でもきっとそうした魅力は、もったいないことに、作者は自覚していないのではないか。
「コケーニュ」の凝った文章は最初読みづらかったが、次第に引きこまれて読んだ。語り手のサラが、無秩序や悪意や残酷にじかに触れることで自身の生を確認する、それは非常に興味深いし、テーマとしてもとてもいいと思う。けれど、ここで描かれる無秩序や悪意や残酷が、読み手に迫ってこない。ニューヨークが舞台だからかと考えたけれど、そうではなくて、小説が閉じているからじゃないかと思う。無秩序も残酷も、またサラの渇望も、このテーマも、作者と深くつながっておらず、頭の中でていねいに緻密に作り上げてしまったものだから、閉じてしまったのではないか。これを今書かなければ自分はどうにかなってしまう、というようなテーマを芯に、この意志のある文章でまた書いてみてほしい。
「走る夜」は私にとってじつに魅力ある小説だった。冒頭に登場する自信ある男なんて、この短い描写だけで容易に思い描ける。ところが作者はその人物に拘泥せず、彼の目先の男に主体をスイッチさせる。走る速度が人間の優劣を決めると信じている男である。この男の、元同級生安くんの人物造形もまた、すごくいい。二人が公園で走り、タイムを測る場面もかなしいくらい滑稽だ。安くんにスイッチしない、つまり安くんがよくわからないままである、というのも巧い。私たちは、私たち自身にしかわからない尺度を持ってコンプレックスを持ったり他人をねたんだり自信を持ったりする、そのことの業じみた不可思議さ、空疎さ、滑稽さを読んでいて感じる。
もったいないと思ったのは、こんなにも魅力的な、生き生きとした人物を描けるのに、途中から出てくる警官にそれがないことだ。この警官は話を集約させるために登場し、実際、集約させる。ここで、作者の「小説とはこうあるべきもの」という、ちいさな枠に小説がおさまってしまった。受賞に推すことはできないけれど、奨励賞を授与したいという選考委員の声に反対はしない。集約させない次の小説を読みたいです。
「アフリカ鯰」は、現代版『オン・ザ・ロード』のように読んだ。なぜアフリカなのか? という疑問がまずわくが、その描写の見事さ、作品世界の頑固さで、疑問を消してしまう。理由なんてものはなくそこはもうアフリカで、語り手たちが非常に理不尽な事態に直面していることを、読み手に納得させてしまう力がこの小説にはある。語り手と親友岡との関係や、白人の女との関係も、類型に落としていないおもしろさがあるが、何より風景描写が非常に巧みだと思う。日本にはない太陽や、土埃を私は見、感じることができた。導入部が、回想へとうまくつながっていないように思えるのだが、もしかしたら作者はもっと長く書きたかったのではないか。この話にはまだ続きがあるのではないか。
「息子の逸楽」を私は受賞作に推したいと思った。大学を卒業したものの何もしていない男が、病気にかかった母親の介護をしている。もしこのモチーフを具体的に書いていたら、じつに重苦しい、あまり魅力のない作品になったと思うが、作者は徹底して独自の印象を描く。その抽象が、ときどきわからなくなるのが残念だったけれど、そのことはこの小説の強度を損なっていない。現代版の姥捨てともいえる小説で、でも語り手が娘ではなく息子だというのが新鮮だった。インターネットのSNSの描き方も、この小説の中で非常に生きていて、新鮮だった。
今回は読むのがたのしかった。自分の内の「小説」定義をこわそうとするものを、ぜひこれからも読みたいです。
吉田修一
選評題「試みの形跡に賭ける」
もし前回の候補に挙がっていれば、今回の候補作の殆どが、受賞または良い所まで残っていたのではないかと思われるほどレベルの高い作品が集まっていた。
「はんだづけ」岩田幸武さん
おそらく無意味であることの意味、のようなものを読みやすい文章で表現しつつ、十九歳男子が一歩大人の世界に足を踏み入れる様を描きたかったのだと思うが、これではテレビ番組の「はじめてのおつかい(十九歳男子編)」にしかなっておらず、読み手に何かの感触を残すのは難しい。
「コケーニュ」長野光さん
面白く読んだ。「羊たちの沈黙」の主人公が舞台をFBIからSMの世界に変え、自分でも説明できない自らの衝動に突き進んで行く様は迫力があったし、ニューヨークの描写、美術への造詣と、読者を別世界へ連れていける力がある。だが、この作品に関しては読んでいる時は面白いのだが、読み終えたあとにいろいろと疑問も浮かぶ。描かれるSMが、たとえば市販のSMビデオや雑誌の巻頭にあるような「SM行為はお互いの体調を考え、ルールを守ってやりましょう」というような注意書きに沿った程度のものにしか思えず、たとえば河野多恵子さんが描くような変態性がまったく感じられない。やっているのではなくて見ている感じとでも言えばいいのか。そこを超えた時、この作者は更にいいものを書くと思う。
「アフリカ鯰」前田隆壱さん
読みやすく、物語に動きがあって、これもまた読者を別の世界へ連れていける力のある作品だと思う。この作者はあまり技巧的な方向へは進まず、このまま更に物語世界や動きを大きくしていけば、「文學界」という枠を超えて、ある種の読者を摑む(原文ママ、常用漢字では「掴む」。以下常用漢字で表記)のではないだろうか。ただ、老婆心ながら一つだけ言わせてもらうと、現時点では完全に「物語>人間」となっている。もう少し厳しく言うと、アフリカを放浪するような大きな物語に比べ、出てくる人間たちにさほど魅力がない。ただ、そこはもうその欠点を逆手に取り、人間を描くのではなく、物語を描くのだと腹を括ってもいいような気もする。小説の可能性は広いのだから、文學界からそういう作家が出てきてもいいと思う。
「息子の逸楽」守島邦明さん
唯一、タイトルの付け方に二十一歳という若さが残るだけで、その老成した作品に唸らされた。奇病の母の手を引き、大阪の町を歩く若い息子の生々しさがこの作品からは滲み出てくる。たとえばニュースでよく見かける介護放棄などの事件の裏にはこのような日常があるのではないかと思わせる説得力もあり、後半矛盾に満ちてくる主人公の語りもまた、介護疲れからのものかと思えばリアリティーがある。作者は二十一歳と若い。おそらくこの先、更にいい作品を書いていく逸材だと思う。唯一そこに壁があるとすれば、それは作者自身が持て余しているはずの生来のしたたかさで、今後それをどうコントロールできるかだと思う。したたかであるからこそ、このような作品が書ける。しかしおそらくだが、若い作者はこのしたたかさを好きになれない。ぜひ次作では「もの言わぬ者」ではなく、「自分の思いどうりにならない者」を相手に格闘してほしい。
「走る夜」野上健さん
さて最後が奨励賞に推したこの作品である。経緯を説明すると、今回「息子の逸楽」と「アフリカ鯰」に関してはおそらく他の選考委員にも推す方があり、どちらかが順当に受賞するだろうと予想されたため、せっかくなので大穴に賭けるつもりでこの作品を第一に推してみたのだが、やはり選考会では過半数の委員から厳しい意見が寄せられた。
この「走る夜」、まず、視点が軽妙に切り替わる。まずコンプレックスなどどこ吹く風というような飄々とした男が現れ、その前を歩く妙に歩き方のダサい男の視点に変わり、すれ違った新米警官へ、そしてまた視点は歩き方のダサい男に戻り、この男が今、50mを何秒で走れるかと試したくなったせいで呼び出される友人の視点へと転がっていく。もちろん作者が設定した構成に振り回されているところはあるし、妙な落ちをつけたラストなど正直なところ読めたものではないのだが、それでも今回の候補作の中で次作をすぐにでも読んでみたいと思わせた作者だった。、
今の世の中、それぞれの人がそれぞれの何か勝手なルールで何かと戦い、勝ったり負けたり、怒ったり喜んだりしている。更に言えば、自分で作るルールだから最終的には必ず勝てる。負けそうになれば作中にあるようにズルしてルールを変えてしまえばいいのだ。だが、対戦相手もまた自分のルールで戦っているので、最終的に勝ってしまう。どっちも勝者。そこに共通のルールがないのだから、どうしてもそうなる。だがそれを傍からみると、どっちも負けているように見えなくもない。ルールばかりが多くて、勝者ばかりの世界。ただ、敗者ばかりの世界。なんだかしっちゃかめっちゃかなのだが、この「走る夜」にはまさにそのような世界を描こうと試みた形跡があるのだ。文学において全てを相対化してしまうことが良いことではないとは思うが、青臭く絶対的価値観ばかりを読まされることの多い新人賞候補作の中、なぜか今回この作品に賭けてみたくなった理由がこれだ。
松浦理英子
選評題「文学主義」
「はんだづけ」は、アルバイトで部品のハンダづけやらお使いやらの末端労働に従事する大学生の日々を描いた労働小説だが、昔のプロレタリア文学ふうではなく、単純な労働や日常のエピソードを少し変わった感覚で面白く書き換えようと試みている。しかし、作品の基盤にある<機械によるオートメーション対人間による手作業>という図式があまりにも古めかしい。文章の精練も今一つで、思想を機械的に小説のかたちに落とし込んだだけで終わった印象である。手工業の興趣や手という器官の存在感を描こうとする努力は見られるのだが、理屈を越えて読者に迫るほどの域には達していないように思う。肉体労働をしばしば描いた中上健次が三十年ほど前に「頭で書くのではなく手で書く」というようなことを言っていたが、「はんだづけ」の作者にはぜひこの言葉の意味を手探りしてほしい。
古めかしいといえば、ニューヨークを舞台にサラという女性が異常な男性との性行為を求める「コケーニュ」も、エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』とか、映画ならば『さよならミス・ワイコフ』や『ミスター・グッドバーを探して』など、いずれも<新しい女性の新しい性行為>を主題とした一九七〇年代の作物を思い起こさせる。保守的なモラルからはずれた女性の性行動を視点一つ、テーマ一つで単純かつ煽情的に描くやり方がそう思わせるのだが、作者はダークな官能ミステリー小説を範としたのかも知れない。いずれにしても、「世界は脈動する失望の洪水だ」といったロマンティックな文章の頻出するこの作品は、「腐った魂の独特の臭気に触れたい」と述懐する女主人公の渇望も描ききれていないし、要となる前科者の男に不気味さや怖さが足りず、通俗的な読み物に止まっている。「腐った魂の独特の臭気」には私も触れてみたいし、読んでみたいのだけれども。
子供の頃から足の遅かった男が駅からの帰り道、足の速い男に追い抜かれたのをきっかけに、今夜五十メートルを七秒台で走ろうと思い立つ「走る夜」は、些細なコンプレックスに駆り立てられて無益な挑戦に走る人間のおかしさと悲しさを、べたつかない筆致で上手に掬い上げているが、枚数は多くないのに多数の人物にスポットを当てる群像劇であるせいもあって、求心力を失い散漫な作品になっていると感じた。こうしたロンドふうの形式(リレー形式か?)の群像劇には本来二百枚以上の分量が必要だろう。百枚程度なら青井と安井のストーリーに絞った方が強い小説になったのではないだろうか。とはいえ、吉田修一委員が称賛する通り、青井が正確には五十メートルではない距離をついに七秒台の好タイムで駆け抜ける場面には意味や文脈を越えた軽い衝撃があり、作品が面白い素質を持っているのは確かなので、今回の奨励賞をはずみにいっそう文学勘(原文ママ)を磨き、飛躍されることを期待する。
受賞作の一つ「アフリカ鯰」は騙されてアフリカに行き全財産を失った男の回想から成る。作者の実体験がかなり反映されているのか、語られている事柄に筆がつき過ぎていて、小説らしい遊びや色艶に乏しい気味もあるが、内容は興味深い。ストーリーの主軸となるのは主人公と親友の関係性の移ろいである。人とのかかわりや世界への眼差しが淡い小説が多い昨今、このように親友への愛着を丁寧に描いたものは珍しく、そこは高く評価したい。主人公には、生い立ちに由来する人間への不信感とともに強い慕情があって、その両義的な感情が恋愛や性行為で発散されるのではなく、親友に裏切られたと感じても立ち去れなかったり、セックスが下手だと言われても母子ほど年の離れた女を「かなり好き」になってしまったり、といった人のよさとして顕われるのも面白い。
主人公のそんな人物像に魅力を感じると、本作品は冒険譚というよりは良質の私小説に近いものがあるのではないかと思えて来る。子供時代の逸話やアメリカで起業した話が出て来るところを見ると、作者はまだまだたくさんの素材を持っていそうであるし、純文学でも娯楽小説でもノンフィクションでもいいので、どんどん書いていただきたい。この作者は六十歳、七十歳になった時にとてもいい老人文学を物する予感がする。
もう一つの受賞作「息子の逸楽」は、母子癒着と介護というシリアスな題材に挑んでいる。若い人がうっかり書いてしまいがちな粉飾された言い回しも目について、初めのうちは「文学にかぶれた人が文学のイメージをなぞって書いたまがいものかも知れない」と疑ったが、読み進むにつれ、文学には溺れてもシリアスな題材には決して溺れまいという、小説を書くものとしてまっとうな意思が感じられて来て、見方を改めた。母親の手に繋ぎ止められたまま崩れ落ちていく感覚が、文字の崩れや母親の姿の失認という視覚の異変を通して描かれるのだが、頭だけで、あるいは小手先で書いているのではなく、言葉が常に主人公の隠微な情念を引きずっている。実にひたむきな書きぶりである。二十一歳の作者はこの作品で堂々の文学主義宣言をしている。
若書きの欠点がないわけではないし、結末に疑問を呈する人々もいるに違いないが、百枚ほどの分量の中に母子で過ごした二十数年分の時間と情念を堆積させ、抑えた筆遣いで主人公の身悶えをじわじわと焙り出し、皺のある手に捉えられた感触や焼菓子の甘さなども読み手に伝える技量は、受賞にふさわしいと考えた。作者は今は熱い文学主義者だが、将来は文学主義を維持しつつも文学のある部分に抵抗し批判的になることもあるかと推測する。ほんとうに面白い小説が書けるのはそうなってからなのだが、才能ある作者にはもちろんそれが可能だと信じる。
松浦寿輝
選評題「秀作三篇」
岩田幸武「はんだづけ」は、単調なハンダ付け作業のアルバイトに没頭する青年と、彼が巻きこまれる謎めいた事件を描く。言われた通り唯々諾々と動くこの主人公の、素直とも愚かともつかぬ奇妙な従順さには、とぼけた味わいがあるが、他方、仕事の発注者である「社長」の人物像が無個性的で平板なのが惜しまれる。また、冒頭に語られる「巨大化した自分の右手の夢」が、全体の構造とどういう連関を持っているかが最後まで不明瞭なままであることにも、釈然としない思いが残った。
野上健「走る夜」は、駆けっこが苦手だという思春期以来のコンプレックスが突如として激昂し、深夜の公園で五十メートル走を繰り返す三十歳の男のお話。この幼稚な男に呼び出されてタイムを測定する友人「安くん」は、好人物らしき外見の下に何を考えているのかわからぬ薄気味の悪さを漂わせ、多少の魅力があるが、それ以外には惹かれるところがなかった。結末で、警官が不審人物の後頭部にいきなり銃弾を撃ちこむというのは、アメリカならいざ知らず、「本当らしさ」のコードからの、あまりと言えばあまりの逸脱ではないか。視点が次々に移っていく趣向が面白いという意見も出たが、わたしにはただとりとめのない乱雑さの印象しか残らなかった。
残りの三作はしかし、どれも非常に面白く、どれが受賞しても不思議はない水準に達していると感じた。
守島邦明「息子の逸楽」は、母と息子の息苦しい相互依存関係を描く。母子癒着はありきたりと言えばありきたりな家庭の病弊だが、ここでは息子の立場からの渾沌と渦巻く情動が全篇を浸潤し、理知的な記述に絶えずひびをを入れ、そこになまなましくまた生臭い不透明性を導入している。いわく言いがたい何かが言葉の流れを攪拌し、混濁させつづけているこの作品のページ面には、自己正当化のナルシシズムのにおいがぷんぷんする「パラサイト症候群」の安直な小説化の試みには絶えてない、うっすらした狂気がたなびいている。
食べ物への言及がバランスを失するほどに多い。母親に口移しに食べさせるとき、「母の唾液が舌に酸っぱく絡んだ。深い目の黒、薄皮の浮いた頬の褐色、わずかな水気に潤む唇の赤……」。この酸っぱさ、この色彩にもまた、理知を崩壊させかねない暴力が漲り、それは息子の言語意識を犯して畸形化させ、視覚に病変をもたらす。
長野光「コケーニュ」の主人公は、アブノーマルな性的偏執に衝き動かされて次から次へと男を漁る若い白人女性である。怪物的な男とのサディスティックな性交の記述にはかなりの迫力が漲っており、性の妄執の謎を真っ向から主題化しようとする作者の姿勢に、近年のなまぬるい小説にはすっかり見出されなくなってしまった正攻法の気負いを感じ、爽快な読後感が残った。
今回は読むのがたのしかった。自分の内の「小説」定義をこわそうとするものを、ぜひこれからも読みたいです。
吉田修一
選評題「試みの形跡に賭ける」
もし前回の候補に挙がっていれば、今回の候補作の殆どが、受賞または良い所まで残っていたのではないかと思われるほどレベルの高い作品が集まっていた。
「はんだづけ」岩田幸武さん
おそらく無意味であることの意味、のようなものを読みやすい文章で表現しつつ、十九歳男子が一歩大人の世界に足を踏み入れる様を描きたかったのだと思うが、これではテレビ番組の「はじめてのおつかい(十九歳男子編)」にしかなっておらず、読み手に何かの感触を残すのは難しい。
「コケーニュ」長野光さん
面白く読んだ。「羊たちの沈黙」の主人公が舞台をFBIからSMの世界に変え、自分でも説明できない自らの衝動に突き進んで行く様は迫力があったし、ニューヨークの描写、美術への造詣と、読者を別世界へ連れていける力がある。だが、この作品に関しては読んでいる時は面白いのだが、読み終えたあとにいろいろと疑問も浮かぶ。描かれるSMが、たとえば市販のSMビデオや雑誌の巻頭にあるような「SM行為はお互いの体調を考え、ルールを守ってやりましょう」というような注意書きに沿った程度のものにしか思えず、たとえば河野多恵子さんが描くような変態性がまったく感じられない。やっているのではなくて見ている感じとでも言えばいいのか。そこを超えた時、この作者は更にいいものを書くと思う。
「アフリカ鯰」前田隆壱さん
読みやすく、物語に動きがあって、これもまた読者を別の世界へ連れていける力のある作品だと思う。この作者はあまり技巧的な方向へは進まず、このまま更に物語世界や動きを大きくしていけば、「文學界」という枠を超えて、ある種の読者を摑む(原文ママ、常用漢字では「掴む」。以下常用漢字で表記)のではないだろうか。ただ、老婆心ながら一つだけ言わせてもらうと、現時点では完全に「物語>人間」となっている。もう少し厳しく言うと、アフリカを放浪するような大きな物語に比べ、出てくる人間たちにさほど魅力がない。ただ、そこはもうその欠点を逆手に取り、人間を描くのではなく、物語を描くのだと腹を括ってもいいような気もする。小説の可能性は広いのだから、文學界からそういう作家が出てきてもいいと思う。
「息子の逸楽」守島邦明さん
唯一、タイトルの付け方に二十一歳という若さが残るだけで、その老成した作品に唸らされた。奇病の母の手を引き、大阪の町を歩く若い息子の生々しさがこの作品からは滲み出てくる。たとえばニュースでよく見かける介護放棄などの事件の裏にはこのような日常があるのではないかと思わせる説得力もあり、後半矛盾に満ちてくる主人公の語りもまた、介護疲れからのものかと思えばリアリティーがある。作者は二十一歳と若い。おそらくこの先、更にいい作品を書いていく逸材だと思う。唯一そこに壁があるとすれば、それは作者自身が持て余しているはずの生来のしたたかさで、今後それをどうコントロールできるかだと思う。したたかであるからこそ、このような作品が書ける。しかしおそらくだが、若い作者はこのしたたかさを好きになれない。ぜひ次作では「もの言わぬ者」ではなく、「自分の思いどうりにならない者」を相手に格闘してほしい。
「走る夜」野上健さん
さて最後が奨励賞に推したこの作品である。経緯を説明すると、今回「息子の逸楽」と「アフリカ鯰」に関してはおそらく他の選考委員にも推す方があり、どちらかが順当に受賞するだろうと予想されたため、せっかくなので大穴に賭けるつもりでこの作品を第一に推してみたのだが、やはり選考会では過半数の委員から厳しい意見が寄せられた。
この「走る夜」、まず、視点が軽妙に切り替わる。まずコンプレックスなどどこ吹く風というような飄々とした男が現れ、その前を歩く妙に歩き方のダサい男の視点に変わり、すれ違った新米警官へ、そしてまた視点は歩き方のダサい男に戻り、この男が今、50mを何秒で走れるかと試したくなったせいで呼び出される友人の視点へと転がっていく。もちろん作者が設定した構成に振り回されているところはあるし、妙な落ちをつけたラストなど正直なところ読めたものではないのだが、それでも今回の候補作の中で次作をすぐにでも読んでみたいと思わせた作者だった。、
今の世の中、それぞれの人がそれぞれの何か勝手なルールで何かと戦い、勝ったり負けたり、怒ったり喜んだりしている。更に言えば、自分で作るルールだから最終的には必ず勝てる。負けそうになれば作中にあるようにズルしてルールを変えてしまえばいいのだ。だが、対戦相手もまた自分のルールで戦っているので、最終的に勝ってしまう。どっちも勝者。そこに共通のルールがないのだから、どうしてもそうなる。だがそれを傍からみると、どっちも負けているように見えなくもない。ルールばかりが多くて、勝者ばかりの世界。ただ、敗者ばかりの世界。なんだかしっちゃかめっちゃかなのだが、この「走る夜」にはまさにそのような世界を描こうと試みた形跡があるのだ。文学において全てを相対化してしまうことが良いことではないとは思うが、青臭く絶対的価値観ばかりを読まされることの多い新人賞候補作の中、なぜか今回この作品に賭けてみたくなった理由がこれだ。
松浦理英子
選評題「文学主義」
「はんだづけ」は、アルバイトで部品のハンダづけやらお使いやらの末端労働に従事する大学生の日々を描いた労働小説だが、昔のプロレタリア文学ふうではなく、単純な労働や日常のエピソードを少し変わった感覚で面白く書き換えようと試みている。しかし、作品の基盤にある<機械によるオートメーション対人間による手作業>という図式があまりにも古めかしい。文章の精練も今一つで、思想を機械的に小説のかたちに落とし込んだだけで終わった印象である。手工業の興趣や手という器官の存在感を描こうとする努力は見られるのだが、理屈を越えて読者に迫るほどの域には達していないように思う。肉体労働をしばしば描いた中上健次が三十年ほど前に「頭で書くのではなく手で書く」というようなことを言っていたが、「はんだづけ」の作者にはぜひこの言葉の意味を手探りしてほしい。
古めかしいといえば、ニューヨークを舞台にサラという女性が異常な男性との性行為を求める「コケーニュ」も、エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』とか、映画ならば『さよならミス・ワイコフ』や『ミスター・グッドバーを探して』など、いずれも<新しい女性の新しい性行為>を主題とした一九七〇年代の作物を思い起こさせる。保守的なモラルからはずれた女性の性行動を視点一つ、テーマ一つで単純かつ煽情的に描くやり方がそう思わせるのだが、作者はダークな官能ミステリー小説を範としたのかも知れない。いずれにしても、「世界は脈動する失望の洪水だ」といったロマンティックな文章の頻出するこの作品は、「腐った魂の独特の臭気に触れたい」と述懐する女主人公の渇望も描ききれていないし、要となる前科者の男に不気味さや怖さが足りず、通俗的な読み物に止まっている。「腐った魂の独特の臭気」には私も触れてみたいし、読んでみたいのだけれども。
子供の頃から足の遅かった男が駅からの帰り道、足の速い男に追い抜かれたのをきっかけに、今夜五十メートルを七秒台で走ろうと思い立つ「走る夜」は、些細なコンプレックスに駆り立てられて無益な挑戦に走る人間のおかしさと悲しさを、べたつかない筆致で上手に掬い上げているが、枚数は多くないのに多数の人物にスポットを当てる群像劇であるせいもあって、求心力を失い散漫な作品になっていると感じた。こうしたロンドふうの形式(リレー形式か?)の群像劇には本来二百枚以上の分量が必要だろう。百枚程度なら青井と安井のストーリーに絞った方が強い小説になったのではないだろうか。とはいえ、吉田修一委員が称賛する通り、青井が正確には五十メートルではない距離をついに七秒台の好タイムで駆け抜ける場面には意味や文脈を越えた軽い衝撃があり、作品が面白い素質を持っているのは確かなので、今回の奨励賞をはずみにいっそう文学勘(原文ママ)を磨き、飛躍されることを期待する。
受賞作の一つ「アフリカ鯰」は騙されてアフリカに行き全財産を失った男の回想から成る。作者の実体験がかなり反映されているのか、語られている事柄に筆がつき過ぎていて、小説らしい遊びや色艶に乏しい気味もあるが、内容は興味深い。ストーリーの主軸となるのは主人公と親友の関係性の移ろいである。人とのかかわりや世界への眼差しが淡い小説が多い昨今、このように親友への愛着を丁寧に描いたものは珍しく、そこは高く評価したい。主人公には、生い立ちに由来する人間への不信感とともに強い慕情があって、その両義的な感情が恋愛や性行為で発散されるのではなく、親友に裏切られたと感じても立ち去れなかったり、セックスが下手だと言われても母子ほど年の離れた女を「かなり好き」になってしまったり、といった人のよさとして顕われるのも面白い。
主人公のそんな人物像に魅力を感じると、本作品は冒険譚というよりは良質の私小説に近いものがあるのではないかと思えて来る。子供時代の逸話やアメリカで起業した話が出て来るところを見ると、作者はまだまだたくさんの素材を持っていそうであるし、純文学でも娯楽小説でもノンフィクションでもいいので、どんどん書いていただきたい。この作者は六十歳、七十歳になった時にとてもいい老人文学を物する予感がする。
もう一つの受賞作「息子の逸楽」は、母子癒着と介護というシリアスな題材に挑んでいる。若い人がうっかり書いてしまいがちな粉飾された言い回しも目について、初めのうちは「文学にかぶれた人が文学のイメージをなぞって書いたまがいものかも知れない」と疑ったが、読み進むにつれ、文学には溺れてもシリアスな題材には決して溺れまいという、小説を書くものとしてまっとうな意思が感じられて来て、見方を改めた。母親の手に繋ぎ止められたまま崩れ落ちていく感覚が、文字の崩れや母親の姿の失認という視覚の異変を通して描かれるのだが、頭だけで、あるいは小手先で書いているのではなく、言葉が常に主人公の隠微な情念を引きずっている。実にひたむきな書きぶりである。二十一歳の作者はこの作品で堂々の文学主義宣言をしている。
若書きの欠点がないわけではないし、結末に疑問を呈する人々もいるに違いないが、百枚ほどの分量の中に母子で過ごした二十数年分の時間と情念を堆積させ、抑えた筆遣いで主人公の身悶えをじわじわと焙り出し、皺のある手に捉えられた感触や焼菓子の甘さなども読み手に伝える技量は、受賞にふさわしいと考えた。作者は今は熱い文学主義者だが、将来は文学主義を維持しつつも文学のある部分に抵抗し批判的になることもあるかと推測する。ほんとうに面白い小説が書けるのはそうなってからなのだが、才能ある作者にはもちろんそれが可能だと信じる。
松浦寿輝
選評題「秀作三篇」
岩田幸武「はんだづけ」は、単調なハンダ付け作業のアルバイトに没頭する青年と、彼が巻きこまれる謎めいた事件を描く。言われた通り唯々諾々と動くこの主人公の、素直とも愚かともつかぬ奇妙な従順さには、とぼけた味わいがあるが、他方、仕事の発注者である「社長」の人物像が無個性的で平板なのが惜しまれる。また、冒頭に語られる「巨大化した自分の右手の夢」が、全体の構造とどういう連関を持っているかが最後まで不明瞭なままであることにも、釈然としない思いが残った。
野上健「走る夜」は、駆けっこが苦手だという思春期以来のコンプレックスが突如として激昂し、深夜の公園で五十メートル走を繰り返す三十歳の男のお話。この幼稚な男に呼び出されてタイムを測定する友人「安くん」は、好人物らしき外見の下に何を考えているのかわからぬ薄気味の悪さを漂わせ、多少の魅力があるが、それ以外には惹かれるところがなかった。結末で、警官が不審人物の後頭部にいきなり銃弾を撃ちこむというのは、アメリカならいざ知らず、「本当らしさ」のコードからの、あまりと言えばあまりの逸脱ではないか。視点が次々に移っていく趣向が面白いという意見も出たが、わたしにはただとりとめのない乱雑さの印象しか残らなかった。
残りの三作はしかし、どれも非常に面白く、どれが受賞しても不思議はない水準に達していると感じた。
守島邦明「息子の逸楽」は、母と息子の息苦しい相互依存関係を描く。母子癒着はありきたりと言えばありきたりな家庭の病弊だが、ここでは息子の立場からの渾沌と渦巻く情動が全篇を浸潤し、理知的な記述に絶えずひびをを入れ、そこになまなましくまた生臭い不透明性を導入している。いわく言いがたい何かが言葉の流れを攪拌し、混濁させつづけているこの作品のページ面には、自己正当化のナルシシズムのにおいがぷんぷんする「パラサイト症候群」の安直な小説化の試みには絶えてない、うっすらした狂気がたなびいている。
食べ物への言及がバランスを失するほどに多い。母親に口移しに食べさせるとき、「母の唾液が舌に酸っぱく絡んだ。深い目の黒、薄皮の浮いた頬の褐色、わずかな水気に潤む唇の赤……」。この酸っぱさ、この色彩にもまた、理知を崩壊させかねない暴力が漲り、それは息子の言語意識を犯して畸形化させ、視覚に病変をもたらす。
長野光「コケーニュ」の主人公は、アブノーマルな性的偏執に衝き動かされて次から次へと男を漁る若い白人女性である。怪物的な男とのサディスティックな性交の記述にはかなりの迫力が漲っており、性の妄執の謎を真っ向から主題化しようとする作者の姿勢に、近年のなまぬるい小説にはすっかり見出されなくなってしまった正攻法の気負いを感じ、爽快な読後感が残った。
ブリューゲルの絵への参照も嫌味ではなく、そこに描かれた人物の「憂鬱な眼差しこそは、生きることの不思議と不毛にノックアウトされた賢者の明哲なる無関心に違いなかった」という認識は、この小説にじかに結びついている。
ただ、力強い言葉の繰り出しかたにもリズミカルな文章にも作者の文学的才気が感知されることは間違いないのに、全ページにわたって奇妙に「映画的」な何かに付きまとわれているような印象が拭えないのはいったいなぜなのか。アマンダ・サイフリッドあたりを口説き落として主演に据え、あとは何もかもを低予算に抑えて要領良く撮り上げれば、サンダンス映画祭を狙えるインディペンデント映画の佳作が容易に一本産み落とせそうだといった読後感が残り、それはこの作品の場合、大した褒め言葉にはならないような気がする。
前田隆壱「アフリカ鯰」は、アフリカの小さな町にいきなり家を買ってしまった二人の男が遭遇するてんやわんやの顚末(原文ママ、常用漢字では顛末)を物語る。「岡」という一種の変人の奇行、ないし愚行に為すすべもなく巻きこまれていく「私」の友情、依存心、無力感、不安、焦慮、自暴自棄、軽はずみな暴走の描きかたに生彩がある。その心理の運動は、具体的な現実の簡潔な描写、具体的な行動のきびきびした記述によって堅固に裏打ちされ、読者の意識をぎゅっと掴んで、後戻りせずに前へ前へとぐいぐい運んでゆく。
選考会ではヘミングウェイの名前が出たが、わたしはアルベール・カミュやポール・ボワルズの「アフリカもの」(そちらは北アフリカだが)を思い出さないでもなかった。感傷に湿っていないハードボイルドな書きぶりと、聾啞(原文ママ、常用「聾唖」)者の女や黒犬の存在感から、そんな連想が働いたのだろうか。大鯰のイメージがすばらしい。ただし、イカサマ師の白人女との絡みはやや通俗的ではないか。
わたしの最大の疑問は、冒頭数ページのプロローグが構造的にやや不安定なのではないかということだ。ここで「私」の「その後」が一挙に語られ、そこから本体をなす回想部へ入ってゆくのだが、この逆行のナラティヴがはたしてどれほどの効果を挙げているか。「私」が子供の頃、叔父の玄関口で見た盥の中の鯰の挿話は、後出の「アフリカ鯰」のイメージと共振しなければならないのに、中途半端なままに終っている。枚数の制限から、かなり多くのものが展開しきれずに残ってしまった作品なのかもしれない。
わたしは一応、「アフリカ鯰」に○、「息子の逸楽」と「コケーニュ」に△という評価を下したが、三作ともに端倪すべからざる才能を感じさせる秀作と感じた。「コケーニュ」の長野光氏にとっては残念な結果となった。
花村萬月
選評題「無限の容れ物はありません」
送られてきた最終選考候補作を横目で見て、第一一七回とあったので、カブじゃねえかと胸の裡で呟きました。前回は受賞作なしでしたから選考後は皆、意気消沈、お通夜のようでした。あんな徒労感は二度と味わいたくない。それで加算して九であることに意味を見出してしまったのでしょう。
今回の最終選考作品のなかでも〈はんだづけ〉はもっとも読みやすかった。けれど、すらすら読んで、最後のほうで未来の人類云々という主人公の空想が現れた時点で、なにも描かないことに対する無意識の不安が作者に兆してしまったことを確信してしまいました。導入の巨大な右手、そのアポトーシスについての記述も然り、といったところ、せっかく半田付けという『無意味』を岩田さんは見いだしたのだから、徹頭徹尾無意味を貫徹してほしかった。この作品は完全に心情を排して現象や行動だけを簡潔に記したら、まったく違った評価を受けたでしょう。
<コケーニュ>は一読して映画の詳細な要約であるかのような印象を受けました。私には主人公が米国女である理由もよくわかりませんでした。丹念な描写を重ねているのに『嘔吐物』と書くべきところを『吐瀉物』と書いてしまうといった甘さ、緩さも残念でした。けれど、最初の得点は悪くなかった。ところがさらにディスカッションを重ねて二度目の集計をしたところ、一気に評価が下がってしまいました。美術に関するセンスなど好いところも多いので、すこしもったいない気持ちですが、読み手の心を掴む何かが欠けている。映画の要約と書きましたが、このあたりに問題があります。具体的には抽象言語の排除を心がけるとずいぶん景色が違ってきます。ところで嘔吐物と吐瀉物の違いがわからぬままに読み飛ばしてしまった貴方、ちゃんと辞書を引きなさい。辞書を引いた貴方は、その細心さを先々も喪わぬように。神は細部に宿る――ではないけれど、大雑把な人は当然、脱落していきます。
<走る夜>は問題作でした。大島雄大という象徴的な名の男が、当人の与り知らぬところで引きおこした大惨劇と戯画的にまとめてしまいましょうか。とても愉しく読み進みました。そして最後で頭を抱えてしまいました。作中に描かれている程度の情況であれば、いかになんでも発砲しないでしょう。もし発砲させるならば、警察官の心情を徹底的に書きこまなければなりませんが、それをすると物語の構造上、完全に焦点がばらけてしまって青井しげると安くんが暈けてしまいます。野上さんはスラップスティックを狙ったのだろうな、と意図を汲みはしましたが、破綻してしまいました。選考後にまわってきた最終候補者の経歴で芸人を目指していたと知り、合点がいきました。後に当人にも訊いたところ、コントを書いていたりしたということで、小説にもオチが必要だと思い込んでいるのではないか。以下は私のmixiの日記の抜粋です。
――小説という散文にオチはいらないということがわからない人がけっこういる。コントや小咄にオチがなかったら困るけどね。なぜ小説が小咄よりも(多少とはいえ)持ちあげられるのかといえば、それはオチがなくても成立するからだ。無理に落とすくらいなら、落とさずに、ふくらみをもたせることを意識しろ。読者の脳味噌に、強いていえば識閾下に働きかけるくらいの意識をもつといい。ま、オチがなければ納得しない幼稚な読者もたくさんいるから不安だろうけれど。でも、オチなんて、売ることを考えて苦闘している作家にまかせておけ。文学界に応募するなら、そういったしがらみから自由になれる場だから、くれぐれもオチにこだわらぬよう。もっと言ってしまえば、文学にしないよう。バカは文学というありもしない形式から入る。ねえよ、そんなもん――内輪向けの柄の悪い文章ですが、執筆に対する縁(ルビで「よすが」)になればと思い、貼り付けておきます。野上さんは幸せです。吉田さんがかつてない◎をつけてくれたのですから。一方で無難に△が並んでそれなりの得点をかせいで受賞した人が消え去っていくのを私はいやというほど目にしています。
じっくり読めた<アフリカ鯰>でした。なによりも描かれたアフリカが浮いていないところがよかった。あれこれ私が吐かす(ルビで「ぬかす」)よりも読んでもらえればいい、と纏めてしまいたいくらいです。この作品は、よい意味で読み物として成立しています。あれこれ余計な分析をせずとも素直に物語が入ってきます。つまり、過不足なく描かれている、ということです。もうすこしギャンブルのひりひりしたところを書きこんでくれたら――という気もしますが、枚数超過を考えればこのあたりで矛を納めるのが妥当でしょう。重箱の隅をつつけば、地の文において『見れる』といったら抜き言葉散 いう但し書きはいるにせよ)なんとも懐かしい気持ちにさせられました。この懐かしさには共感と反感が含まれているのですが、こういった感情をもたらすことができるのですから、筆力に疑いはありません。前田さんにはこぢんまりとまとまらぬためにも多作を要求しておきます。
私にとって<息子の逸楽>がいちばんの問題作でした。簡単に表現できることを難しく喋ってしまうようなところがあって、本来ならば『アホ』と、ひとこと呟いて終わらせてしまうところなのですが、『アホ』と吐き捨てることのできぬ粒子が大量にまぶされていたからです。一読、理解できぬ部分が幾つかあり、再読しても微妙にわからないところがありあした。ただし守島さんの名誉のために付け加えておきますが、これは私が『アホ』なせいです。骨格だけを抜きだしてみればいたってシンプルな小説です。私は細部に拘泥して俯瞰を忘れてしまっていたのです。他選考委員は気にならなかったようですが、私は大阪という土地にも拘ってしまい、ここでも作者は対比を狙ったのか、それとも大阪に馴染があって漠然と用いたのか判断がつきませんでした。私は関西に住んでいるので、脳裏に泛ぶリアルな大阪の絵と母子の姿に微妙な乖離を覚えてしまったのです。とはいえ作者の才能を疑う余地はありません。私は今回の全応募作に描かれた女のなかでも三枝先生にもっとも生々しさを覚えてしまったのです。三枝先生は、見事な記号でした。討論を重ねた結果、この作品にずらりと〇が並びました。選考後に守島さんの二十一歳という年齢を知って、私は自分がおなじ歳のころ、いかにアホだったかを突きつけられたような気分になりました。
選考後、編集長Tが嬉しい悲鳴をあげていました。なにせ三本の作品を掲載しなければならないからです。二本までは想定していたでしょうが、さすがに三本だと三百枚超、按排しないとならないでしょう。掲載予定だった誰の作品がはずされるのだろうか。そんな余計なことまで私は考えてしまいました。ことさら煽りたてる気もありませんが、現実は残酷なものです。けれど、志した以上は勝ち抜いていかないとなりませんね。前田さん、守島さん、そして野上さんは浮かれずに即座に次作に取りくんでください。
(選評は以上。なお、抜粋者の判断で一行空きを作った部分がある。)
ただ、力強い言葉の繰り出しかたにもリズミカルな文章にも作者の文学的才気が感知されることは間違いないのに、全ページにわたって奇妙に「映画的」な何かに付きまとわれているような印象が拭えないのはいったいなぜなのか。アマンダ・サイフリッドあたりを口説き落として主演に据え、あとは何もかもを低予算に抑えて要領良く撮り上げれば、サンダンス映画祭を狙えるインディペンデント映画の佳作が容易に一本産み落とせそうだといった読後感が残り、それはこの作品の場合、大した褒め言葉にはならないような気がする。
前田隆壱「アフリカ鯰」は、アフリカの小さな町にいきなり家を買ってしまった二人の男が遭遇するてんやわんやの顚末(原文ママ、常用漢字では顛末)を物語る。「岡」という一種の変人の奇行、ないし愚行に為すすべもなく巻きこまれていく「私」の友情、依存心、無力感、不安、焦慮、自暴自棄、軽はずみな暴走の描きかたに生彩がある。その心理の運動は、具体的な現実の簡潔な描写、具体的な行動のきびきびした記述によって堅固に裏打ちされ、読者の意識をぎゅっと掴んで、後戻りせずに前へ前へとぐいぐい運んでゆく。
選考会ではヘミングウェイの名前が出たが、わたしはアルベール・カミュやポール・ボワルズの「アフリカもの」(そちらは北アフリカだが)を思い出さないでもなかった。感傷に湿っていないハードボイルドな書きぶりと、聾啞(原文ママ、常用「聾唖」)者の女や黒犬の存在感から、そんな連想が働いたのだろうか。大鯰のイメージがすばらしい。ただし、イカサマ師の白人女との絡みはやや通俗的ではないか。
わたしの最大の疑問は、冒頭数ページのプロローグが構造的にやや不安定なのではないかということだ。ここで「私」の「その後」が一挙に語られ、そこから本体をなす回想部へ入ってゆくのだが、この逆行のナラティヴがはたしてどれほどの効果を挙げているか。「私」が子供の頃、叔父の玄関口で見た盥の中の鯰の挿話は、後出の「アフリカ鯰」のイメージと共振しなければならないのに、中途半端なままに終っている。枚数の制限から、かなり多くのものが展開しきれずに残ってしまった作品なのかもしれない。
わたしは一応、「アフリカ鯰」に○、「息子の逸楽」と「コケーニュ」に△という評価を下したが、三作ともに端倪すべからざる才能を感じさせる秀作と感じた。「コケーニュ」の長野光氏にとっては残念な結果となった。
花村萬月
選評題「無限の容れ物はありません」
送られてきた最終選考候補作を横目で見て、第一一七回とあったので、カブじゃねえかと胸の裡で呟きました。前回は受賞作なしでしたから選考後は皆、意気消沈、お通夜のようでした。あんな徒労感は二度と味わいたくない。それで加算して九であることに意味を見出してしまったのでしょう。
今回の最終選考作品のなかでも〈はんだづけ〉はもっとも読みやすかった。けれど、すらすら読んで、最後のほうで未来の人類云々という主人公の空想が現れた時点で、なにも描かないことに対する無意識の不安が作者に兆してしまったことを確信してしまいました。導入の巨大な右手、そのアポトーシスについての記述も然り、といったところ、せっかく半田付けという『無意味』を岩田さんは見いだしたのだから、徹頭徹尾無意味を貫徹してほしかった。この作品は完全に心情を排して現象や行動だけを簡潔に記したら、まったく違った評価を受けたでしょう。
<コケーニュ>は一読して映画の詳細な要約であるかのような印象を受けました。私には主人公が米国女である理由もよくわかりませんでした。丹念な描写を重ねているのに『嘔吐物』と書くべきところを『吐瀉物』と書いてしまうといった甘さ、緩さも残念でした。けれど、最初の得点は悪くなかった。ところがさらにディスカッションを重ねて二度目の集計をしたところ、一気に評価が下がってしまいました。美術に関するセンスなど好いところも多いので、すこしもったいない気持ちですが、読み手の心を掴む何かが欠けている。映画の要約と書きましたが、このあたりに問題があります。具体的には抽象言語の排除を心がけるとずいぶん景色が違ってきます。ところで嘔吐物と吐瀉物の違いがわからぬままに読み飛ばしてしまった貴方、ちゃんと辞書を引きなさい。辞書を引いた貴方は、その細心さを先々も喪わぬように。神は細部に宿る――ではないけれど、大雑把な人は当然、脱落していきます。
<走る夜>は問題作でした。大島雄大という象徴的な名の男が、当人の与り知らぬところで引きおこした大惨劇と戯画的にまとめてしまいましょうか。とても愉しく読み進みました。そして最後で頭を抱えてしまいました。作中に描かれている程度の情況であれば、いかになんでも発砲しないでしょう。もし発砲させるならば、警察官の心情を徹底的に書きこまなければなりませんが、それをすると物語の構造上、完全に焦点がばらけてしまって青井しげると安くんが暈けてしまいます。野上さんはスラップスティックを狙ったのだろうな、と意図を汲みはしましたが、破綻してしまいました。選考後にまわってきた最終候補者の経歴で芸人を目指していたと知り、合点がいきました。後に当人にも訊いたところ、コントを書いていたりしたということで、小説にもオチが必要だと思い込んでいるのではないか。以下は私のmixiの日記の抜粋です。
――小説という散文にオチはいらないということがわからない人がけっこういる。コントや小咄にオチがなかったら困るけどね。なぜ小説が小咄よりも(多少とはいえ)持ちあげられるのかといえば、それはオチがなくても成立するからだ。無理に落とすくらいなら、落とさずに、ふくらみをもたせることを意識しろ。読者の脳味噌に、強いていえば識閾下に働きかけるくらいの意識をもつといい。ま、オチがなければ納得しない幼稚な読者もたくさんいるから不安だろうけれど。でも、オチなんて、売ることを考えて苦闘している作家にまかせておけ。文学界に応募するなら、そういったしがらみから自由になれる場だから、くれぐれもオチにこだわらぬよう。もっと言ってしまえば、文学にしないよう。バカは文学というありもしない形式から入る。ねえよ、そんなもん――内輪向けの柄の悪い文章ですが、執筆に対する縁(ルビで「よすが」)になればと思い、貼り付けておきます。野上さんは幸せです。吉田さんがかつてない◎をつけてくれたのですから。一方で無難に△が並んでそれなりの得点をかせいで受賞した人が消え去っていくのを私はいやというほど目にしています。
じっくり読めた<アフリカ鯰>でした。なによりも描かれたアフリカが浮いていないところがよかった。あれこれ私が吐かす(ルビで「ぬかす」)よりも読んでもらえればいい、と纏めてしまいたいくらいです。この作品は、よい意味で読み物として成立しています。あれこれ余計な分析をせずとも素直に物語が入ってきます。つまり、過不足なく描かれている、ということです。もうすこしギャンブルのひりひりしたところを書きこんでくれたら――という気もしますが、枚数超過を考えればこのあたりで矛を納めるのが妥当でしょう。重箱の隅をつつけば、地の文において『見れる』といったら抜き言葉散 いう但し書きはいるにせよ)なんとも懐かしい気持ちにさせられました。この懐かしさには共感と反感が含まれているのですが、こういった感情をもたらすことができるのですから、筆力に疑いはありません。前田さんにはこぢんまりとまとまらぬためにも多作を要求しておきます。
私にとって<息子の逸楽>がいちばんの問題作でした。簡単に表現できることを難しく喋ってしまうようなところがあって、本来ならば『アホ』と、ひとこと呟いて終わらせてしまうところなのですが、『アホ』と吐き捨てることのできぬ粒子が大量にまぶされていたからです。一読、理解できぬ部分が幾つかあり、再読しても微妙にわからないところがありあした。ただし守島さんの名誉のために付け加えておきますが、これは私が『アホ』なせいです。骨格だけを抜きだしてみればいたってシンプルな小説です。私は細部に拘泥して俯瞰を忘れてしまっていたのです。他選考委員は気にならなかったようですが、私は大阪という土地にも拘ってしまい、ここでも作者は対比を狙ったのか、それとも大阪に馴染があって漠然と用いたのか判断がつきませんでした。私は関西に住んでいるので、脳裏に泛ぶリアルな大阪の絵と母子の姿に微妙な乖離を覚えてしまったのです。とはいえ作者の才能を疑う余地はありません。私は今回の全応募作に描かれた女のなかでも三枝先生にもっとも生々しさを覚えてしまったのです。三枝先生は、見事な記号でした。討論を重ねた結果、この作品にずらりと〇が並びました。選考後に守島さんの二十一歳という年齢を知って、私は自分がおなじ歳のころ、いかにアホだったかを突きつけられたような気分になりました。
選考後、編集長Tが嬉しい悲鳴をあげていました。なにせ三本の作品を掲載しなければならないからです。二本までは想定していたでしょうが、さすがに三本だと三百枚超、按排しないとならないでしょう。掲載予定だった誰の作品がはずされるのだろうか。そんな余計なことまで私は考えてしまいました。ことさら煽りたてる気もありませんが、現実は残酷なものです。けれど、志した以上は勝ち抜いていかないとなりませんね。前田さん、守島さん、そして野上さんは浮かれずに即座に次作に取りくんでください。
(選評は以上。なお、抜粋者の判断で一行空きを作った部分がある。)
文學界新人賞
では、手始めに取り上げます新人賞は名門「文學界新人賞」です。
文学界新人賞は公募型新人賞で、始まったのは1955年。公募型新人賞としては最古参です。
第1回に石原慎太郎を「太陽の季節」で受賞させてスタートさせました。
現在は年に2回開かれ、締切は6月と12月。受賞作と選評は「文學界」の6月号と12月号に掲載されています。
初期は、年に数回のペースで作品を募り、それぞれの回の入選作の中で最も優れたものに受賞する、というタイプの賞だったようですが、管理人の調べが行き届いておらず、第何回から現在の形式になったのかはわかりません。調べがつき次第掲載いたします(汗)
では、そんな文學界新人賞選評を最新117回から掲載していきます。
文学界新人賞は公募型新人賞で、始まったのは1955年。公募型新人賞としては最古参です。
第1回に石原慎太郎を「太陽の季節」で受賞させてスタートさせました。
現在は年に2回開かれ、締切は6月と12月。受賞作と選評は「文學界」の6月号と12月号に掲載されています。
初期は、年に数回のペースで作品を募り、それぞれの回の入選作の中で最も優れたものに受賞する、というタイプの賞だったようですが、管理人の調べが行き届いておらず、第何回から現在の形式になったのかはわかりません。調べがつき次第掲載いたします(汗)
では、そんな文學界新人賞選評を最新117回から掲載していきます。
サイトについて
このサイトでは、様々な文学賞(公募、非公募、新人、その他関わらず)の選評をまとめていきます。
使い方は自由。傾向の研究も、ただ単に読み物として選評を楽しむこともできるようにしていきたい所存です。ただ、資料集めの都合上更新はゆったりとしたものになると思いますので、ご容赦ください。
また、芥川賞・直木賞の選評データについては、偉大なる先駆サイト「直木賞のすべて」「芥川賞のすべて・のようなもの」がありますので、取り扱わない方針でおります。
では、どうぞ、ごゆっくり閲覧なさってくださいませ。
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